仕事のしんどさを承認の問題から考える

 


 仕事がものすごくしんどい。この状態はいったい何なのだろうか。しんどさを言葉で説明することはできるだろうか。

いま務めている会社は2社目である。1社目は新卒で入ったが、ちょうど1年で辞めてしまった。メーカーだったのだが、人手が足りない関連会社の工場で半年ほど働いた。きみにとっていい経験になる、と上司は説明したが、どう見ても人が足りない(=本社では人が余っている)という理由だった。それだけの理由で、半年もの時間が過ぎ去ることに驚き、うんざりした。

今の会社に入ってからは2年と5か月経った。自分の趣味に近い、出版に関する仕事である。けれども、半年くらい前から、またあのうんざりが脳内に居座るようになってしまった。一番大きなきっかけは、1回目の緊急事態宣言のあと、社内の契約社員や新入社員が数人、契約打ち切りになったことだった。

宣言当初、社長が朝礼で「うちの会社にはたくわえがあるから、皆さんの雇用は心配ありません」といった。しかし、夏の初めに、昨年までと比べて大幅に業績が落ちる、という見込みが出た。しばらくあとに、契約社員や試用期間中の人たちが間もなくクビになることが知らされた。会社にとって守るべき雇用の中に、自分を含めた正社員は含まれていたが、その人たちは入っていなかったのである。自分たちの部署の何人かが、上司を通して質問文あるいは意見文を社長宛に送った。それに対して、社長は「自分の給料も数十%カットしている」「コロナ禍はどんな経営者も予測できなかった」という返答を、ほかの社員には決して他言しないように、という念押しとともにメールでよこした。

1社目、そして現在の会社での経験を振り返ると、自分が会社にうんざりするときは、決まったパターンがある。会社は自分(あるいは社員)のことを大事にしてくれない、と思ったときである。

ひきこもりの若者を数多く担当してきた精神科医の斎藤環によれば、「あなたはなぜ働くのか」という問いに対して、少なくとも団塊の世代以上は「食うため」と答えるが、若い世代は別のことを考えるという。

若い世代にとっての就労は、もはや「義務」ではない。この文脈で言えば「欲求」の対象なのである。それも低次の欲求ではない。彼らが「就労したい」と望むのは、基本的に「承認欲求」のためなのだ(『承認をめぐる病』)。

低次の欲求という言い方は、マズローの5段階欲求説にまつわるものである。人間の欲求はピラミッドのようにできていて、下から生理的欲求、安全欲求といった基盤的欲求が満たされて初めて、上段の関係欲求や承認欲求が満たされる、という。

ここでのポイントは「承認」である。若い世代(いちおう自分もその一員だとして)にとって、承認の根拠は「他者とのコミュニケーション」に依存している。象徴的なのがキャラという概念である。若者は学校や職場で、一定のキャラを演じることで立ち位置を確保している。集団における承認は、すなわちキャラとしての承認である。

この感覚はよくわかる。ところが斎藤はこれを「異例の事態」という。なぜなら、

承認とは本来、客観的な評価を根拠に成立していたからだ。個人の能力や才能、成績や経済力、親の地位や家柄などがこれにあたる。こうした客観的な「承認の基準」が確立されていれば、孤立を恐れる必要はない。一定の基準のもとで自己承認が可能となるからだ。

「しかし現代においては、そうした客観的基準の価値ははるかに後退してしまった」。客観的な評価よりも、相対的で間主観的な評価(たとえばコミュ力)によって承認されるかどうか、が最重要の問題となったのである。

 斎藤の本ではこのあと、「主人と奴隷の相互依存」というモチーフから、承認概念の根源的なパラドックスがより深堀りされていく。しかし、ここでは最初の「会社が自分を大事にしない」問題に戻りたい。

 そもそも、会社(経営者)にとって労働者は、資金や製品、不動産といった数あるリソースのうちの一つである。つまり大きなコストの一つでもある。だから、決して余らせてはいけない。会社が製品の余剰在庫を処分しなければいけないのと同様に、余った人員を不足している職場に配置したり、思い切ってクビにする、というのは、経営判断としてはむしろ正しい。

 もちろん、そうして労働者をこき使い続けては誰も定着しない。だから、会社は労働者の「食うため」という欲求を満たす。斎藤によれば、先行世代の「食うため」には、「安定的な収入」という意味での安定欲求や、「妻子を食わせる」という意味での関係欲求も含まれている。たしかに、正社員という立場は安定を意味するし、子供が生まれればおめでとう、お父さんになったのだからがんばらなきゃね、と言われたりする。

会社はある種の欲求を満たすことで、労働者をリソースとして使い倒すことの許可を得ている。しかし、決して承認欲求が満たされることはない。なぜなら、そこにコミュニケーションがないからだ。飲み会はある。雑談もある。でも、それは社員同士のコミュニケーションであって、会社と社員の間ではない。命令はあれどコミュニケーションは存在しない。本人の希望しない職場に配置したり、経営側が「お前の雇用を守る代わりに契約社員をクビにするよ」というメッセージを送ることは、承認とは正反対の事態である。

現代の承認とは、キャラとして認められること、コミュニケーションを通して「この私」を認められることを意味する。もちろん、キャラは一種の仮面であり、「真実の私」ではないというのが前提である。けれども、表層だとしても固有性であることに代わりはない。自分にとっていま会社がしんどいのは、この私を承認しない、私はあくまで代替可能なリソースに過ぎない、という事実を如実に突き付けられているからだ、とひとまずは言える。

繰り返すが、そうした扱いは経営者から見れば間違っていない。また、会社員として長年やってこられた人にとっては、そんなの当たり前だよという感じだろう。でも、会社と社員のあいだの承認をめぐる巨大な欠落について、人を固有性ではなく匿名のリソースとして扱うことへの開き直りについて、無感覚でいることは難しい。

まだ問題の核心にはほど遠い感じがする。考えることで少しでも抵抗したい。

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