文学とエッセイ、オタクとヤンキー
最近、エッセイに興味を持っている。
一昨年くらいからトイレに一冊本を置くことにしていて、気が向いたときに手に取っている。トイレ文庫と呼んでいて、しばらくは小説とか評論とか、いくつかの本を置いてみた(いずれも文庫本。軽くないと、画鋲で壁にとりつけた棚が落ちてしまいそうだからだ)。その結果、トイレにはエッセイが一番合う、ということがわかった。最近では森田真生の『数学の贈り物』がよかった。少し前では、松岡正剛の『千夜千冊』が文庫になったものも読んだ。
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エッセイを読むことには、いつも読んでいる本とは少し違った感覚がある。たとえるなら、いつも読んでいる小説や批評がオタク的な文章で、エッセイはヤンキー的な文章だ。
オタクとヤンキーというのは、斎藤環の言葉である。斎藤は精神科医で、ひきこもりの治療や著書を出しているほか、オタク文化についての分析も行っている。2012年の著書『世界が土曜の夜の夢なら――ヤンキーと精神分析』は、オタクとは対照的な存在であるヤンキー(に象徴されるある種の日本文化)がテーマだ。そこで斎藤は、オタクの言葉とヤンキーあるいはギャルの言葉の違いについて触れている。
斎藤によれば、オタク同士の会話は無数のアニメや漫画の引用から成り立っている。景気よく出発するときはガンダムのように「〇〇行きまーす!」と叫び、見晴らしのよいところに立てばラピュタのように「人がゴミのようだ」と言う。一方、ヤンキーたちはきわめて対照的な言語感覚を持つのだという。
オタクは自らの感情すらも、作品からの引用句や定型文の形を借りて伝えようとする。しかし、ギャルやヤンキーは、そうした「引用」の身振りとは一切無縁だ。彼らは自らの感性だけを頼りに、新しい表現を次々と生み出していく。
「とりま」「あげぽよ」といった言葉は、ヤンキーたちの間で休みなく繰り広げられる会話(会話のための会話=毛づくろい的会話)から生み出された言葉だ。こうした言葉は、どちらかというと「書き言葉」発祥のオタク語よりも「話し言葉」に近いルーツを持つため、流行語大賞的な一般性を獲得しやすいとのこと。私じしん、オタク的言語には非常に身に覚えがあり、それらは思春期の大部分を費やしたニコニコ動画(とルーツとしての2ちゃんねる)によるものだという自覚がある。たしかにニコ動はコメント=書き言葉で、引用だらけの世界なのだ。
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話を戻す。先ほど述べた、いわゆる真面目な小説や批評はオタク的で、雑多な考えやリズムをもつエッセイがヤンキー的だ、という区分は、斎藤が指摘した「引用」への依存を踏まえると、それなりにあたっているのではないかと思う。
まず、斎藤の書籍から概念を引用しているこの文章が何よりもオタク的である。そしてこのブログは批評をテーマにしているのだが、そもそも何かの作品や現象について論じる批評という形式が、根本からしてオタク的ということでもある。
ここで、小説はフィクションだから引用とかなくてヤンキー的なんじゃないの、と考えることも可能だ。しかし、正統派な小説(純文学)の多くは、作家がそれまでに読んできた先行世代の作品が大小さまざまに影を落としているものである。たとえ作品内で明言されなくても、ジャンルを読み慣れた読者は「ああ、これはあの作家の影響を受けてるね」と言い当ててしまう(当たりはずれは別として)。あるいは、新人作家へのインタビューで必ず聞かれるのが「どのような本を好んで読んできたのですか」という問いである。だから、小説はそもそもオタク的な磁場のなかで書かれ、読まれている。
私は自分がオタクであることに加えて、オタク的な批評や小説を読み、オタク的な文章を書いている。ならば、そこでエッセイを読むことは何か意味があるのだろうか。
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エッセイについて考えるために、ヤンキーについてもう少し学ぼう。
斎藤はヤンキー文化の精神性を表現するために、丸山眞男が日本文化の特徴として述べた「つぎつぎになりゆくいきほひ」という感覚をこう言い換えた。「気合とアゲアゲのノリさえあれば、まあなんとかなるべ」。
ヤンキーは計画や思慮深さ、あるいは反省といった行動を嫌う。降りかかる困難に対して、そのたびに発揮される気合とノリ(および共に戦う家族や仲間)を最も重要視する。
こう言われればすでになんとなく理解できるが、斎藤はヤンキー精神をもう一歩深く説明するために、「換喩」という言葉を使う。換喩とは比喩のひとつで、対象に隣接するもので表現される。医者を「聴診器」で表したり、兵士を「銃」で表したりする。そしてヤンキーにとってそれは「リーゼント」である。
ヤンキー漫画の主人公は「キャラ立ち」が命、といっても過言ではないが、僕の考えでは、「キャラが立つ」とは、換喩的に目立った特徴を持つことである。アトムの髪型がアトムの本質であるように、綾小路翔の本質は、あのデフォルメされまくったリーゼントなのだ。
ヤンキーとはキャラ立ちするということ。キャラ立ちするとは換喩的に目立つということ。リーゼントに集約された本質、リーゼントさえあれば一発でわかるヤンキー性。それが「ヤンキー文化の換喩性」というものだ。
さて、換喩の対照にあるのは「隠喩」である。隠喩は「炎のような情熱だ」というような表現で、つまり本質を別のものに言い換えた比喩である。これは「情熱は炎に似ている」と言っても同じことである。
ただし換喩はそうではない。「ヤンキーといえばリーゼントだ」は成立するが、「リーゼントはヤンキーに似ている」は成り立たない。リーゼント単体では気合もアゲも表現されていない(たぶん)。だから、「リーゼントに本質が集約されている」というのは実は間違っていて、リーゼントには何も本質など宿っていない。しかし、その表層的な特徴がヤンキーの全てなのである。
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話が散らかってきたので、そろそろまとめなければいけない。今回は、オタク的な趣味を持ち、オタク的な表現しかできない私が、どうしてエッセイに興味を持ったのかを考えたいのだった。
オタクは「引用」を好む。言い換えれば普遍性=ここではないどこかで作られて以来、永遠に保たれてきた本質みたいなものを信じている。一方で、ヤンキーは「気合とアゲアゲのノリ」=今ここで出来る表現に賭ける。知らない人の言葉や思想ではなく、今ここに直面する自分、つまり対象に隣接する表現が全てである。
引用好きなオタクと気合好きなヤンキー。隠喩的な文学と換喩的なエッセイ。
ここまで書いて思ったのは、今のエッセイへの興味は一般に言う「オタクがヤンキーに憧れる」ということ以上に(それも間違ってはいないけど)、オタク的でもありヤンキー的でもある表現について考えてみたい、ということなのかもしれない。書き言葉でもあり、同時に話し言葉でもあるような文章。
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現在のトイレ文庫は村上春樹『職業としての小説家』である。村上が作家としての経験や考えをつづったエッセイ集だ。たまたま今日読んだページに、こう書かれていた。
「文章を書いている」というよりはむしろ「音楽を演奏している」というのに近い管感覚がありました。……それは要するに、頭で文章を書くよりはむしろ体感で文章を書くということなのかもしれません。リズムを確保し、素敵な和音を見つけ、即興演奏の力を信じること。
ここだけ読めばまさにヤンキー的エッセイの話をしているように見える。しかし、村上は「はじめて小説を書いたときのこと」を書いている。
そもそも村上の小説はきわめて「隠喩」が多い文章であり、また小説そのものが隠喩的な構造を持っている、と前のブログに書いた。でも、その成り立ちはどうやら「換喩的」であるらしいのである。
ここにすでに、オタク的であるはずなのにヤンキー的な、あわいの世界が広がっているようだ。

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