村上春樹のたとえ話
ちょうど1年くらい前に、村上春樹の小説をいくつも連続で読んだことがあった。
タイトルを列挙すると、国境の南太陽の西、神の子どもたちはみな踊る、風の歌を聞け、女のいない男たち、東京奇譚集、海辺のカフカ、スプートニクの恋人、アフターダーク、ねじまき鳥クロニクルとなる。これに以前読んだ1Q84、ノルウェイの森、色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年、騎士団長殺しを加えると13作になる。
そして間をおいて最近、「羊をめぐる冒険」を読んだ。なんで久々に読もうと思ったのかは忘れてしまったけど、1年前に読んだときの感想を思い出して、やはり同じことを考えた。村上春樹の比喩って何なのか。
「羊をめぐる冒険」で語り手は謎めいた羊を追い求める。その羊はふつうの羊ではなく、ある男たちにしか見えない幻のような存在である。その羊に憑りつかれた男たちは、比類なき権力を手にしながら、底知れぬ不幸に見舞われる。羊は、明らかに何かの比喩である。しかし、何の比喩なのかははっきりとは示されない。
村上の小説では、こういう比喩=メタファーがよく登場する。というか、比喩を連発することで小説を進めているような感じがする。たとえば「羊をめぐる冒険」でこんな段落がある。
時間は驚くほどゆっくりと流れた。それは天に向けてそびえ立つ巨大な機械装置の一個のボルトを思わせる冷ややかで硬質な三十分だった。相棒が銀行から帰ってきた時、部屋の空気がひどく重くなっているように感じられた。極端に言えば、部屋の中にある何もかもが釘で床に固定されたような、そんな感じだった。
●●を思わせる××…何もかもが●●のような××…。こういう比喩がカニづくし懐石のカニのような(一度だけ食べたことがある)頻度で使われるのである。
さらに、比喩はこうした表現の技法だけではなくて、さきほどの羊のように、物語に欠かせないものとして扱われている。
たとえば「海辺のカフカ」では、顔を知らない母と姉を探して家出した少年が、旅先でふたりの女性に出会う。彼女らは実際のところ彼の母と姉ではない。それは少年もよくわかっているが、けれども母らしきもの、姉らしきものを彼女らに感じ、互いに近づいていく。
作中にはこんなセリフもある。「比喩は離れたもの同士の距離を近づける」。●●らしきもの=比喩があるから物語は動く。比喩は、本来近づかないはずのもの同士が出会うために、人々の前に現れる先ぶれなのだ。
だとして、なぜ村上は比喩をここまで必要とするのだろうか。
批評家の佐々木敦は「1Q84」について語る文章で、村上の小説をこのように表現した。
実際のところあまり何も考えていない男が、無表情なまま彼女の悩みに耳を傾けていて、とりあえず話の接ぎ穂として「わかるよ」とだけ口にしたら、彼女はその寡黙な一言に隠された多くの想いを勝手に感じ取り、深く感動して彼のことがますます好きになってしまう、というような印象。彼は彼女を騙そうとしているわけではないし、実際騙してはいない。だが、彼女の方は騙されているのだ。
ちょっと意地悪な言い方で、実際に佐々木はある程度批判的な文脈でこのたとえを使っているのだが、たしかに的を射ていると思う。
佐々木のたとえの「わかるよ」というつぶやきを、比喩と言い換えればよい。「羊をめぐる冒険」の羊は、「これは何かの比喩ですよ~」と明らかに仄めかされる。小説を最後まで読んでも、何の比喩かは結局示されない。だが、何かの比喩が存在し、自分はその大いなる謎の一端に触れたのだ、という充実した感覚だけが読者に残る。自分も一読者としてこの感覚はよくわかる。
一方で、佐々木は村上という作家の真価も同じところに見出している。それは主人公が「実際のところ何も考えていない」ところ、あるいは「他者の気持ちがどうしても理解できない」ところである。
他者の気持ちがどうしても理解できない、というのは、つまり比喩の宛先を見つけられないということである。比喩は必ず「●●=××」、つまり「●●のような××」という構造がある。なのに、羊という物語上の比喩(ボルトや釘のような表現上の比喩ではなく)は、××の部分が存在しないのに、●●だけがポンと置かれているのである。村上は××がどうしてもわからない。というか、わからないときしか小説にしない。主人公の元を去ってしまった恋人や友人たちの本当の気持ち(××)を、●●という形でしか表現しない。でも、その不能性こそが他の作家にはない村上らしさである。
けれども、読者はそこに深遠な意味での理解(××=比喩の答え)を勝手に見つけてしまう。こうした共感のはき違えが村上の他を圧倒する人気を支えてしまっているという。
佐々木が、村上の不能性をひと際高く評価したのが、「騎士団長殺し」についての文章である。そこではずばり、「騎士団長殺し」は村上が東日本大震災という出来事を語ろうとした物語なのだ、と指摘されている。
何か具体的で現実的な、忌まわしく痛ましい出来事に向き合おうとするとき、そのような距離感を、そのような書き方を選ぶ。それをそのまま直截には語らない/語れないということこそ、村上春樹と言う小説家の最大の特徴である
世の中にはどうやら、直接語ることが決してできない種類の出来事があるらしい。言葉で言い尽くせない衝撃的な出来事である。
村上はそうした出来事をどうにかして語ろうとするときに文学を使う。そして村上の文学は比喩で出来ている。単なる比喩ではなく、宛先のない比喩である。「騎士団長殺し」は、直接的に東日本大震災を描写した場面はない。いや、厳密には一か所だけ、エピローグにあたるパートで、テレビの中の出来事として登場する。けれど、物語は災害も原発事故も扱ってはいない。それでも、「白いスバルフォレスターの男」、あるいは騎士団長殺しと題された絵画を通して、村上は語り尽くせない××に接近しようとする。
「騎士団長殺し」の主人公は井戸を通って冒険する。「ねじまき鳥クロニクル」も同じである。両作において井戸は異世界への通路として機能する。たぶん、それは縦に長い井戸を横にした「=」の形と無関係ではない。村上は「●●=××」の「××」は描けないし描かない。代わりに「●●」と、そこから伸びる「=」を描く。村上の比喩とはそのようなものなのである。

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