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2月, 2021の投稿を表示しています

観察して、更に観察して

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   「日々移動する腎臓のかたちをした石」という短編小説が村上春樹の作品にある。   30 歳を過ぎた男性の作家が、パーティーで女性と出会う。作家は女性から「私はどんな仕事をしているように見える?」と訊かれる。   「ヒントは?」  「ヒントはなし。むずかしいかしら? でも、観察して判断するのがあなたの仕事でしょう?」  「それは違うね。観察して、観察して、更に観察して、判断をできるだけあとまわしにするのが、正しい小説家のあり方なんだ」 印象的なセリフである。小説家は観察するが、判断しない。これは物語の設定にとどまらない、村上じしんのポリシーのようである。 エッセイ『職業としての小説家』のなかで村上は、 普段から訊かれる「作家になるために必要な訓練とはどのようなものか?」という質問に答えている。第一が「良いものも悪いものもなるべくたくさんの小説にふれること」、そして第二が「まわりにいる人々や、周囲で起こるものごとを何はともあれ丁寧に、注意深く観察すること」だという。観察し、考えを巡らせる。けれど、考えを巡らせた結果、なにかの結論を早急に導き出してはいけない。判断を保留し、その出来事をひとつの事例としてそのまま記憶することが大切だ。 村上の例では「真剣に腹を立てるとなぜかくしゃみが止まらない人」である。そこから安易に判断をくだしてはいけない。判断しないというのはたぶん、「価値判断をしない」という意味だ。つまり、その人は「おかしい人だ」とか、逆に「優れているのだ」とかの評価をくださないこと。 村上は、判断を即座にくだすのがうまい人は、学者や評論家に向いているかもしれないという。たしかに、一般的に評論や批評という行いに期待されているのは、その作品が優れていて見るべき価値があるか(あるいはその逆)、を判断することである。文学と批評の境界線は、観察と評価の境界線に等しい、というのが村上の考えだ。  だが、当の批評家が「評価よりも観察だ」と考えているとしたらどうか。 * 「美味しいという字は美の味と書くのだが、」というタイトルの文章が佐々木敦の評論集に収められている。佐々木はそこで、グルメを引き合いにして、じしんが考える批評観を簡潔に説明している。うんちくや星付けが重視されているグルメの世界とは異なり、批評とは「ここにこれがあ...

仕事のしんどさを承認の問題から考える

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    仕事がものすごくしんどい。この状態はいったい何なのだろうか。しんどさを言葉で説明することはできるだろうか。 いま務めている会社は2社目である。1社目は新卒で入ったが、ちょうど1年で辞めてしまった。メーカーだったのだが、人手が足りない関連会社の工場で半年ほど働いた。きみにとっていい経験になる、と上司は説明したが、どう見ても人が足りない(=本社では人が余っている)という理由だった。それだけの理由で、半年もの時間が過ぎ去ることに驚き、うんざりした。 今の会社に入ってからは2年と5か月経った。自分の趣味に近い、出版に関する仕事である。けれども、半年くらい前から、またあのうんざりが脳内に居座るようになってしまった。一番大きなきっかけは、1回目の緊急事態宣言のあと、社内の契約社員や新入社員が数人、契約打ち切りになったことだった。 宣言当初、社長が朝礼で「うちの会社にはたくわえがあるから、皆さんの雇用は心配ありません」といった。しかし、夏の初めに、昨年までと比べて大幅に業績が落ちる、という見込みが出た。しばらくあとに、契約社員や試用期間中の人たちが間もなくクビになることが知らされた。会社にとって守るべき雇用の中に、自分を含めた正社員は含まれていたが、その人たちは入っていなかったのである。自分たちの部署の何人かが、上司を通して質問文あるいは意見文を社長宛に送った。それに対して、社長は「自分の給料も数十%カットしている」「コロナ禍はどんな経営者も予測できなかった」という返答を、ほかの社員には決して他言しないように、という念押しとともにメールでよこした。 * 1社目、そして現在の会社での経験を振り返ると、自分が会社にうんざりするときは、決まったパターンがある。会社は自分(あるいは社員) のこと を大事にしてくれない、と思ったときである。 ひきこもりの若者を数多く担当してきた精神科医の斎藤環によれば、「あなたはなぜ働くのか」という問いに対して、少なくとも団塊の世代以上は「食うため」と答えるが、若い世代は別のことを考えるという。 若い世代にとっての就労は、もはや「義務」ではない。この文脈で言えば「欲求」の対象なのである。それも低次の欲求ではない。彼らが「就労したい」と望むのは、基本的に「承認欲求」のためなのだ(『承認をめぐる病』)。 低次の欲...

文学とエッセイ、オタクとヤンキー

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 最近、エッセイに興味を持っている。  一昨年くらいからトイレに一冊本を置くことにしていて、気が向いたときに手に取っている。トイレ文庫と呼んでいて、しばらくは 小説とか評論とか、いくつかの本を置いてみた(いずれも文庫本。軽くないと、画鋲で壁にとりつけた棚が落ちてしまいそうだからだ)。その結果、トイレにはエッセイが一番合う、ということがわかった。最近では森田真生の『数学の贈り物』がよかった。少し前では、松岡正剛の『千夜千冊』が文庫になったものも読んだ。 *  エッセイを読むことには、いつも読んでいる本とは少し違った感覚がある。たとえるなら、いつも読んでいる小説や批評がオタク的な文章で、エッセイはヤンキー的な文章だ。  オタクとヤンキーというのは、斎藤環の言葉である。斎藤は精神科医で、ひきこもりの治療や著書を出しているほか、オタク文化についての分析も行っている。 2012 年の著書『世界が土曜の夜の夢なら――ヤンキーと精神分析』は、オタクとは対照的な存在であるヤンキー(に象徴されるある種の日本文化)がテーマだ。そこで斎藤は、オタクの言葉とヤンキーあるいはギャルの言葉の違いについて触れている。  斎藤によれば、オタク同士の会話は無数のアニメや漫画の引用から成り立っている。景気よく出発するときはガンダムのように「〇〇行きまーす!」と叫び、見晴らしのよいところに立てばラピュタのように「人がゴミのようだ」と言う。一方、ヤンキーたちはきわめて対照的な言語感覚を持つのだという。  オタクは自らの感情すらも、作品からの引用句や定型文の形を借りて伝えようとする。しかし、ギャルやヤンキーは、そうした「引用」の身振りとは一切無縁だ。彼らは自らの感性だけを頼りに、新しい表現を次々と生み出していく。  「とりま」「あげぽよ」といった言葉は、ヤンキーたちの間で休みなく繰り広げられる会話(会話のための会話=毛づくろい的会話)から生み出された言葉だ。こうした言葉は、どちらかというと「書き言葉」発祥のオタク語よりも「話し言葉」に近いルーツを持つため、流行語大賞的な一般性を獲得しやすいとのこと。私じしん、オタク的言語には非常に身に覚えがあり、それらは思春期の大部分を費やしたニコニコ動画(とルーツとしての2ちゃんねる)によるものだという自覚がある。たしかにニコ動はコメント=...

村上春樹のたとえ話

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ちょうど 1 年くらい前に、村上春樹の小説をいくつも連続で読んだことがあった。 タイトルを列挙すると、国境の南太陽の西、神の子どもたちはみな踊る、風の歌を聞け、女のいない男たち、東京奇譚集、海辺のカフカ、スプートニクの恋人、アフターダーク、ねじまき鳥クロニクルとなる。これに以前読んだ 1Q84 、ノルウェイの森、色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年、騎士団長殺しを加えると 13 作になる。 そして間をおいて最近、「羊をめぐる冒険」を読んだ。なんで久々に読もうと思ったのかは忘れてしまったけど、 1 年前に読んだときの感想を思い出して、やはり同じことを考えた。村上春樹の比喩って何なのか。 「羊をめぐる冒険」で語り手は謎めいた羊を追い求める。その羊はふつうの羊ではなく、ある男たちにしか見えない幻のような存在である。その羊に憑りつかれた男たちは、比類なき権力を手にしながら、底知れぬ不幸に見舞われる。羊は、明らかに何かの比喩である。しかし、何の比喩なのかははっきりとは示されない。 村上の小説では、こういう比喩=メタファーがよく登場する。というか、比喩を連発することで小説を進めているような感じがする。たとえば「羊をめぐる冒険」でこんな段落がある。 時間は驚くほどゆっくりと流れた。それは天に向けてそびえ立つ巨大な機械装置の一個のボルトを思わせる冷ややかで硬質な三十分だった。相棒が銀行から帰ってきた時、部屋の空気がひどく重くなっているように感じられた。極端に言えば、部屋の中にある何もかもが釘で床に固定されたような、そんな感じだった。 ●● を思わせる ××… 何もかもが ●● のような ××… 。こういう比喩がカニづくし懐石の カニ のような(一度だけ食べたことがある)頻度で使われるのである。 さらに、比喩はこうした表現の技法だけではなくて、さきほどの羊のように、物語に欠かせないものとして扱われている。 たとえば「海辺のカフカ」では、顔を知らない母と姉を探して家出した少年が、旅先でふたりの女性に出会う。彼女らは実際のところ彼の母と姉ではない。それは少年もよくわかっているが、けれども母らしきもの、姉らしきものを彼女らに感じ、互いに近づいていく。 作中にはこんなセリフもある。「比喩は離れたもの同士の距離を近づける」。 ●● らしきもの=比喩があるか...