行為の前に意味はなく

 


-1×-1はなぜ1になるのか。

 

意味がわからない。こういうひっかかりは、学校の算数とか数学のいたるところに潜んでいる。

このひっかかりをどう乗り越えるか、という話が、数学者の森田真生の『数学の贈り物』というエッセイに載っていた。

 

森田はとりあえず計算してみることが大事だという。

意味が分からなくてもルールだけを身に着ければ、機械的に-1×-1の答えを導くことはできる。

 

計算とは、記号を操作することで答えを導く手法である。

マイナスの計算までいかなくても、小学校で習う筆算だって同じだ。記号操作の世界は自律的である。意味が分からなくても、電卓のようにルールを身に着ければ、答えがわかる。

このとき、意味は保留状態におかれる。リンゴの数や駅までの所要時間といった、元々の意味を離れて記号を動かしている。たしかに、意味が分からなくても計算(行為)はできる。

 

この行為に何の意味があるのですか、と問うて、とりあえずやってみろ、と答えが返ってくる場面は、たぶん人生で何度もある。

たとえば学校の勉強、会社の仕事、結婚。

やってみりゃわかる、と言われれば、まあそうなんだけど、でも、と言い訳して立ち止まってしまうのが人間である。

 

行為の前に意味を確かめたい。

結果の前に原因を確かめたい。

 

なぜ人間はこうした欲望を捨てきれないのか。

またニーチェの『権力への意志』を開いてみる。すると、ヒントになりそうな言葉がいくつかある。

  

「私たちの思考において本質的なことは、新しい素材を古い範型のうちへと組み入れる働き(=プロクルステスの鉄床)、新しいものを同等のものにでっちあげるはたらきである」。

 

プロクルステスとは、訳注によるとギリシャ神話にでてくる盗賊である。「捕らえた者をその寝台によこたえ、身長が寝台より長ければそれを切り、短ければそれを伸ばし、寝台と同じ長さにした」。

これこそ「何の意味があるんですか…」と言いたくなる行為ではあるが、つまりそのような「意味を問いたがる」人間の思考とは、未知なるものを既知の枠組みのなかに押し込めて成型してしまうことなのだ。人間は意味を問い、意味をでっちあげるのである。

 

ニーチェによれば、意味(原因)をでっちあげなければ、人はそもそも行為(結果)を認識すらできない。「捏造された因果性の連鎖が意識されるにいたったときはじめて、その状態が意識される」。

本当は結果しかない。そこから原因を遡って見つけているのだ。ジャンケンでパーを出して負けたあとに、グーを出しておけばよかった、と後悔するように。本当はパーを出した、という結果しかないのである。

私たちは結果しか見ていないにもかかわらず、①原因→②結果、あるいは①意味→②行為という順番でしか出来事を認識できない。ニーチェはこれを、①主語→②述語という文法上のルールでしか思考できない人間の習性だ、という。事件が起これば(述語)、そこに犯人(主語)がなくてはならない。

 

人間は行為の意味をでっちあげる。でっちあげなければ行為を理解することができない。確かにこの習性が、未知の行為を前にして人間を立ち止まらせるだろう。

けれども、未知の行為から新たな意味を見つけることができるのも、人間の同じ習性によるものである、としたらどうだろうか。

 

数学の話に戻そう。

意味が分からなくても計算してみる。機械的な計算を繰り返すうちに、そこから新たな意味が立ち上がってくると森田は言う。

例えばマイナスとマイナスの計算ならば、数直線のイメージである。

4-1をかけると、0を原点として左右に伸びる数直線の反対側-4に飛ばされる、という感覚がわかってくる。マイナスをかけるとは、数直線上の現在の位置から「反対側を向くこと」という意味があらわれるのだ。

ならば、-1-1をかけるということは、数直線の反対側=+1に行くことだ。

こうした意味は、行為の前にあるのではない。記号運用のルールにしたがった計算の反復の果てに、意味は後からついてくる。ここでも、人は意味をでっちあげる。

 

-1×-1という、既知の意味では説明できなかった出来事が、計算という道を通ることで、新たな意味として説明できるようになった。森田はこうした例が、「記号が意味の先まで人を導いてくれる」経験になるという。

人は文法的思考から離脱することはできない。だが、ひととき述語(行為)のみに身を任せることで、新たな主語(意味)を手に入れることができる。それはやってみて初めて分かる。やってみる前に、意味を確信できる人はいない。しばし無意味の行為に耐える辛抱強さも必要だ。でも、やってみるしかないのだ。

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