ニーチェの「権力への意志」って何なのか


月イチの読書会でニーチェの本を読んでいる。

『権力への意志』という、文庫本だが上下巻であわせて1,000ページくらいある、めっちゃ分厚い本。まだ下巻の半分くらいまでしか読んでいないけど、ここにきてだいぶ面白くなってきている。

そのテンションを忘れないために、いくつかポイントを書き残しておく。

 

ニーチェはドイツの哲学者で、1900年に亡くなっている。

「神は死んだ」という言葉が有名で、哲学の歴史のなかでも、現代につながる大きなターニングポイントに位置する人として名前が挙がる。

『権力への意志』は、ニーチェが亡くなった後に妹によって編さんされた遺稿集である。短くて1行、長くて45ページの文章を、テーマごとに集めてそれっぽく本にしている。

妹が色々勝手に加筆した可能性も高いらしく、著作のなかではやや眉唾ものという扱いらしい。とはいえ完全に妹のオリジナル構成でもなくて、本人が生前に計画していた目次案に基づいているので、おおよそニーチェの思想を反映した作品として読まれている。

 

では、タイトルにある「権力への意志」って何なのか。

ふつうに考えれば、会社とか集団において私たち人間が持つ「支配欲」のような意味っぽい。

でもニーチェはもっとデカいことを考えていて、この世界は「権力への意志」で出来ているという。人間ではなく世界が、つまりあらゆる生き物も無機物も何もかも、ということ。

 

権力とはそもそも、ABのふたりがいて、支配をかける側とかけられる側のあいだに発生する。

ニーチェの言葉では「働きかける作用」と「抵抗する作用」。ニーチェいわく、働きかけも抵抗もしないこと=無関心、という状態は、想定することはできるけど実在はしないという。つまり、あらゆる存在は権力をめぐるABのどちらか、あるいはABの衝突の結果だということになる。

言い換えれば、他の誰かと争うことなしには誰も存在することすらできない。ただAとして独立して存在する、という普通の意味での「存在」は存在しない。

 

ここまでは原理の話なので、あまり具体的ではない。

でも、「権力への意志」はこの世界において、私たちにもわかる形で色々と表現されているらしく、それを追いかけることで、なんとなく全容が見えてくる。

 

まず経済。

よく、コスパがよいことや財布に優しいことを「経済的」と言ったりする。ウェブで検索すれば「効率性」という言い換えも出てくる。つまりお金に限らず「小さな力でますます大きな成功をとげるもの」、これが経済の原理である。

ニーチェはこれをABの衝突、「権力への意志」が経済という形で解釈されている、つまり「いかに力が浪費されるか(=節約するか)の仕方のうちに表現されている」という。

 

ここを読んだとき、「おお~~」とたいへん腑に落ちるものがあった。

何がというと、経営者と言われる人たちが、なぜあそこまで会社や事業に人生を賭けているのか、ということの答えがこれだと思ったのだ。より少ないコストで、より大きな利益を得ること。それがビジネス=経済の理屈だとはわかっていたが、それの何が面白いんじゃ、という感じだった。そんなことより大事なことや面白いことはこの世にいくらでもあるだろう、となんとなく思っていた。

でも、「利益を最大化する」ということが、すなわち「権力を最大化する」ことなのだと言われるとしっくりくる。経営者やビジネスマンたちは、ただただ一途に「権力への意志」に従っているのである。

 

経済の他にも、「権力への意志」を発見できるところがある。それは原子=アトムである。

ニーチェは「原子なんて本当はない」という。

いや、さすがにそれは……と思ったが、考えてみればあんがい突飛な意見でもない。

 

原子は電子顕微鏡があって初めて観測できる。電子顕微鏡というのは、精密な電子回路や機械工学がつくった道具である。つまり、あらゆる科学のベースとなっているであろう原子という物体は、その科学によって組み立てられた道具を通してしか観測できない。だから、科学を信じなければ、原子も信じることができなくなるのである。数学者の森田真生が『数学の贈り物』でそんなことを書いていた。

 

権力への意志は、働きかける作用と抵抗する作用のことである。そうした作用そのものは目に見えない。だから、不可視の作用を可視的な世界に翻訳する必要がある。そのときに登場するが科学という「ことば」である。

「私たちは計算しうるために単位を必要とする。だからといって、そうした単位が“ある”と想定してはならない」。

私たちが世界を理解するためには原子という単位を仮に設定しなくてはならない。だけれど、その単位が実在していると思い込んではいけない。

 

経済も原子も、世界に存在するものや起きている現象はみんな「権力への意志」だとニーチェはいう。その帰結として、権力への意志が一番強い状態、極大状態も想定される。

それこそがいわゆる「神」という存在である。

下巻には「子午線通過の刹那としての神。」という超クールな一文がいきなり登場する。これはつまり「神」という不動の存在はいないが、「神ってる」という瞬間はあり得る、ということである。なんとなく、サッカーの試合で劇的なゴールが決まった瞬間が思い浮かぶ。そのときシュートを打った選手が神なのではなく、その状態が神なのである。

 

こういう感じで、世界を「権力への意志」で説明しようとするニーチェ。

だとしたら何なの、ニーチェは世界をどうしたいの、という疑問が湧いてくる。その答えはこの後に書いてあるのかもしれないが、すでにヒントになりそうな箇所もあった。

それは、「責任や罰という概念をこの世からなくしたい」という部分である。

 

なんでいきなり責任とか罰の話になるのか。

整理しきれていないが、なるべく順番に考えてみる。

 

世界は「権力への意志」で出来ている。ABが争う、さらにはCDEも…と無数の存在がひしめく、いわば戦国時代である。そこに固定された秩序はなく、すべての物が生成流転する。

この認識をなぜニーチェがわざわざ言い立てているかというと、世間の常識は真逆だからである。

 

世界は普遍的なもので出来ている、というのがキリスト教の考え方である。そしてヨーロッパでキリスト教は絶対的な立場にある。

人間にはみんな霊魂があり、この世では仮の肉体に霊魂が宿っていると考える。つまり、人間はいま生きているこの世の前から不変の存在である、となる。

 

この時点でニーチェとは正反対の世界観だが、さらにそこに加わるのが、旧約聖書のアダムとイブのエピソードに代表される罪の概念である。

禁じられたリンゴを食べてしまったことで楽園を追放されたアダムとイブから人間の歴史が始まったのだから、人間はみんな罪を背負っている。

その罪を一身に背負って死んだのがイエスであり、その後を生きる私たちは生前からの罪深さを自覚し、贖罪のために正しく生きろ、と教えられる。

 

生まれる前から存在している。しかも罪を負っている。ニーチェはこのキリスト教的な道徳観がとことん気に入らない。罪と、そこから生じる責任の概念は捏造されたものだ、と糾弾する。

捏造した人々(キリスト教の僧侶たち)は、人間には自ら意欲して行動する自由がある、と民衆を励ます。そして行動に責任を負わせる。なぜならば、社会を統治するにあたって責任をとらせる=罰をあたえるという方法がきわめて有用だったからである。

神という最終的な責任者を仮構し、そこから与えられた自由を破った人間(リンゴを食べるとか)を罰する。その完成されたシステムから人間を解放しなくてはならない、とニーチェはいう。

 

こんな一行がある。

「誰かが生存しているということ、誰かがかくかくであるということ、誰かがこれこれの事情のもとで、これこれの環境のうちで生まれたということ、このことの責任を負いうる者はひとりとしていない。」

この生は親からでも、神からでも、誰から与えられたものでもない。この生じたいに定められた意味も目的もない。

ここから「権力への意志」へどのように戻るのかはまだわからないが、この偶然性の肯定は印象に残った。

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