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2月, 2024の投稿を表示しています

240215

 『純粋理性批判』を読んでいくなかで、気になっているポイントがいくつかある。 ①理性とは何なのか? 意外に説明されない。本文では、人間が持つ2つの能力(対象の像を受け取る「感性」と、それを思考する「知性」)とは何かがひたすら論じられている。しかし、書名にも登場する理性という言葉は、それらと名前が似ているにもかかわらず、次元が異なる言葉のように思える。 たぶん、感性と知性という能力全体を指す、根っこの原理みたいなものが理性。それが何なのかをあれこれ議論する学問を「形而上学」、つまり哲学と呼ぶ。終わりなき闘い、みたいな表現もある。プラトンやらアリストテレスやらからはじまる長い長い闘い=プロジェクトをカントが引き継ごうとする。序文からは、「哲学に革命起こすで」みたいな気合はとにかく伝わってくる。いわく、哲学のなかでも最大の問題(神、自由、不死の3つ)を本のなかで論じていくとのこと。期待。 ②超越論的という言葉 これが知りたくて読みはじめたので、はじめて本文に登場したときは素直に感動した。 「わたしは、対象そのものを認識するのではなく、アプリオリに可能なかぎりで、わたしたちが対象を認識する方法そのものについて考察するすべての認識を、超越論的な認識と呼ぶ」。 「わたしは」からはじまっているのがいい。まさにカントが呼び始めたから。 たとえると、ジョジョ3部のはじめのほうではじめて「スタンド」が出てきて、「生命エネルギーが作り出す像なんじゃ」(実際のセリフは忘れた)と説明されたときのような感じ。以降のジョジョ、のみならず無数の漫画やゲームがこの定義から出発している。 同様に、カント以降の無数の哲学が、超越論的という方法を前提に、あるいは批判することで成り立っている。 もしかすると厳密にはカント以前にも同様の考え方があって、たまたまカントが名付けた名前が現在も使われているだけなのかもしれないが、それはこれから勉強すればいずれわかるたぶん。

240208

・「わたしたちのすべての認識は経験からはじまる。」 しかし、「すべての認識が経験から生まれるわけではない。」 「ここで問いたいのは、経験から独立した認識というものが、……存在するかどうかということである。」 「経験から独立した認識を、アプリオリな認識と呼んで、経験的な認識と区別することにしよう。経験的な認識の源泉はアポステリオリである。」 ・『純粋理性批判』はまずもって認識の由来を問うところからはじまる。その後も何度も出てきてこねくり回されるので、読んでいるとそもそもの意味があやふやになってくる。 ・認識、とはどのような行為を指すか?=この本は何をターゲットにしているか? ・日常的ではどんな意味で使っているか。たとえば仕事のときに「次の動きはAをする、という認識で合ってますか?」とかいう。あるいは「それは認識がちょっと間違ってるんじゃないか」など。おおよそ「理解すること」の意味あいである。 ・辞書を引いてみよう。デジタル大辞泉 1 ある物事を知り、その本質・意義などを理解すること。また、そういう心の働き。「認識が甘い」「認識を新たにする」「認識を深める」「対象を認識する」 2 《cognition》哲学で、意欲・情緒とともに意識の基本的なはたらきの一で、事物・事柄の何であるかを知ること。また、知られた内容。 ・「理解すること」は合っていた。また、理解するという「行為」だけでなく、理解した「内容」も、同じ認識という言葉で指すようだ。 ・というか、「哲学で」というピタリの説明があるとは思わなかった。認識は意欲・情緒とはちがう、というのもポイントだろう。 ・冒頭の引用に戻る。わたしたち人間が物事を認識するということ、つまりそれが何なのかの内容を知ることは、すべて「経験からはじまる」。しかし、すべての認識が「経験から生まれる」わけではない。 ・はじまると生まれるは何が違うのか。現状の理解。PCのスイッチを押したり何かの操作を加えるとプログラムが「はじまる」。その後新規作成される(「生まれる」)テキストやらファイルやらはあるが、たとえばプログラム自体は「生まれた」わけではない。操作(経験)の前から生まれていたが、操作によって起動した(「はじまった」)のである。作動することと、新規作成することの違い。 ・次の話に突っ込んでしまったが、カントが問いたいのは、「経験から独立した認識...

240204

 ・哲学の、中でも難しい古典と言われている本は、だいたい入門書が出ている。たまたまだが去年はいろいろな入門書を読んだ。「資本論」、「存在と時間」、あとラカンの入門書。 ・本の原典を読むのと、入門書を読むのはどちらが先がよいか、という話がある。 ・その道のプロは「最初から原典を読んで、わからなくなったら入門書を読め」という人が多い。千葉雅也のような人は「カッコつけず入門書を大いに読め」という。 ・じぶんは、入門書は観光のガイドブックのようなものだと思う。原典は観光地そのものである。 ・イタリア観光のガイドブックなら、ローマにはコロッセオがあり、それはこんな歴史を持っていますとか、標識に書いてあるこの言葉はこういう意味です、とか書いてある。入門書を読むとは、そういう「ツボとかコツをあらかじめ知っておくこと」、あるいは「行かなくてもなんとなく行った気になること」でもある。 ・その後、実際にイタリアに足を運んでみるとどうか。ローマのコロッセオを訪れる。想像していたよりも大きくない。でも見た目はガイドブックで見たとおりだ。何気なく、ガイドブックで見た写真と同じ角度で写真を撮りたくなる。…という感じか。原典を読むと、ガイドブックが教えてくれたことを確認していく作業感が出る一方で、何かしら想像を裏切ったり上回ってくるものもある。 ・結論は、順番はどうあれどっちも読めばいい。のだが、もうひとつだけ原典にしかない力があって、それは本物感である。「これが、あのコロッセオですか~」と、こちらを感嘆させるような何か。ありがたみ。それは権威に他ならないので、別にヘコヘコする必要もないのだが、そうしたら「ありがたみとは何なのだろうな」と新たに考えればいい。 ・ところで、こういう文章を書くと、最後に「すべての観光地に行くことはできないが、イタリアについて語るならローマにいかないわけにもいかない。大事なのはとにかく足を動かし続けることだ。」のような、惹句めいたことを言いたくなる。でも、そういうのは考えたこととは関係がない。書いた時に気持ちよくなる以上の効果はない。オチなし、ぶつ切り、結論を出さないことに耐える。これも惹句だが。