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東浩紀の文体テクニック

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  東浩紀の『存在論的、郵便的』( 1998 )を読んでいる。東浩紀については前から思っていたことがある。それは、どの文章にも決まったテクニックがあるな、ということである。 いくつかのテクニックによって、哲学者の文章だが、前提知識があまりなくても読めるようになっている(博士論文になった『存在論的、郵便的』は例外的に難しいが、それでもなんとなく流れを追える)。では、具体的にどんなものがあるか。思いつくままに書きだしてみよう。   1  ひらがなが多い 2  要点を何度も言い換える 3  「とりあえず理解」でアシストする 4  「どういうことだろうか」 5  「わたしたち」視点   ● 1  ひらがなが多い 内容に直接関係しないが、たとえば「むろん」(無論)がよく出てくる。こういうひらがな言葉のおかげで、読書がつっかえることなく進む。柄谷行人も「むろん」を使っているみたいなので、その影響か。   ● 2  要点を何度も言い換える 東浩紀は文章中でなんども言い換える。違う言葉で言い直すことで、論旨を整理したり、発展させるための足掛かりにしている。例えば、『存在論的、郵便的』ではこんな文章がある。 フレーゲ/ラッセルの記述理論は、ある言語体系のなかでひとつのシニフィアンが必ず等価なシニフィアンの束(確定記述)と交換可能である、言い換えれば言語内翻訳がつねに成立することを前提としている。 このシニフィアンというのは、例えば「アリストテレス」という人名と、その名前が指す実際の人物を別物として分けて考えたとき、前者を指す言葉である。シニフィアンの束と交換可能、とかいうと難しいが、翻訳、と言われれば腑に落ちる。 また、腑に落ちるだけでなく、言い換えが印象に残るパワーフレーズとして機能することもある。下記は同じ『存在論的、郵便的』から、「幽霊」という概念について論じる文章。 マーク・ウィグリーは場所の隠喩系を中心にデリダの仕事を整理するなかで、「幽霊」を場所の同一性を侵犯する寄生体、内部と外部の境界を揺るがす一種のずれを指示する語として捉えている。(……)しかし私たちは、その種の理解は決定的な点を逸していると考える。いままで論じてきたようにデリダの「幽霊」には、ゲーデル的脱構築の...

エヴァ旧劇場版の希望的観測

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   エヴァンゲリオンの「旧劇場版」をネットフリックスで見た。  いま映画館でやっている最新の劇場版を見る前に、見ておこうと思ったのである。 見た直後は、うわさどおり「わけわからん」というか呆然としてしまった。特に、登場人物のほとんどが死を迎えたあと、シンジとアスカの二人だけが生き残るエンディングには、アスカの「気持ち悪い」という捨て台詞も相まって、すさまじい後味の悪さを感じた。  ところが、次の日の夜くらいから、段々と新しい感想が湧き出てきた。具体的には、次に見たテレビ総集編(旧劇場版の前に公開された映画)のエンドロールで、パッヘルベルのカノンが流れはじめたあたりから、である。 *  カノンは単なる BGM ではなく、アニメの一場面として演奏されている。弦楽四重奏を演奏するのはエヴァンゲリオンのパイロットであった子どもたち 4 人だ。シンジは一番低いチェロのパートを弾いている。ヴィオラのアスカが「あんたは和音のアルペジオを弾くだけだからいいわよね」と言うとおり、シンジはある一定の和音を弾き続ける。あとで知ったことだがカノン進行といって、ある和音の運びが中島みゆきの「糸」や井上陽水の「少年時代」といった名曲のサビに共通して使われているらしい。  それはともかく、自身に割り当てられたパートをひたすら弾き続けるシンジの姿を想像したとき、旧劇場版の印象が大きく変わった。というか、鑑賞当初とは異なるものを読み取れるのではないかと思った。シンジは世界を救えなかったが、何もかもに失敗(バッドエンド)したのではなく、無数の欠陥を抱えた自分のまま生きていくことにだけは成功したんじゃないか? *  旧劇場版のクライマックスでは、登場人物たちを含めた人類がすべて、自身の欲望が実現するという恍惚のうちに液状化し、ひとつの生命体に統合されてしまう(理屈はよくわからないがそういうものとして扱う)。破滅のトリガーとなってしまったシンジは、内なる母の声に選択をせまられる。「人類がひとつとなって完璧な調和を実現するか、従来通り個別の存在として生きていくか」。  シンジは、他人にどうしても心を開けない少年だった。父親からの冷遇に加え、自分はエヴァの操縦士という役割なしでは決して他人から承認されないのだ、というアイデンティティの危機を常に抱えていた。だから母からの問...

ニーチェ『権力への意志』を読み終えた

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  ニーチェ『権力への意志』を読み終えた。あらためて、自分なりの理解をまとめてみる。 * この本の最初にして最大のキーワードはニヒリズムだ。本のねらいを宣言した「序言」を見てみよう。このような予言から始まる。 「私の物語るのは、次の二世紀の歴史である。私は、来たるべきものを、もはや別様には来たりえないものを、すなわちニヒリズムの到来を書き記す。」 やがて世界に到来するニヒリズムとは何か。それは「すべてのものはいかなる意味をももたない」という立場である。辞書によれば虚無主義ともいう。 なぜ世界がニヒリズムにおちいってしまうのか。それは、キリスト教的道徳が世界に広まることで、必然的に引き起こされる事態なのだ。どういうことだろうか。 キリスト教はヨーロッパ世界の秩序を確立した。しかし、ニーチェからすればその秩序は欺瞞に満ちていた。キリスト教はたとえば天国での救済を約束するが、現実の苦難は救ってくれない(これは『カラマーゾフの兄弟』でも提起される問題だ)。聖書の教えは、宗教の無力を覆い隠して僧侶たちが権力を得るためのしかけにすぎない。 仮にキリスト教が人間の誠実さを育むのであれば、人々は誠実さによってこうした欺瞞にかならず気づく。だから、キリスト教的道徳はそれ自身の力によって没落せざるを得ない。このように、ニヒリズムの到来は歴史の必然的な帰結といえるのだ。 * もちろん、ニーチェは近い将来の予測のみを記したわけではない。「序言」はこう結ばれている。「私たちは、いつの日にか、新しい諸価値を必要とする」。 諸価値とは、旧来「価値あるもの」とされてきたキリスト教や道徳である。それらを徹底的に考えぬく(=疑い、ニヒリズムの段階を経る)と、「権力への意志」という原理が見えてくる。権力への意志を理解することで、旧来の価値とは異なる「新しい価値」を定義することができる。そうした宣言が行われているのである。 では、ニヒリズムの先にある権力への意志、そして新しい価値とは何なのか。 これまでの議論でも権力という言葉が出てきた。キリスト教とは、僧侶たちが権力を得るための方便に過ぎない。ニーチェによれば、宗教は権力への意志のひとつの表れである。 それだけではない。人間が理想、あるいは真理を求めるということ(これを形而上学という)が、「すな...