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9月, 2024の投稿を表示しています

240924

夢のなかで直観を得ることがある。それを起きたあとも覚えている。今日はそんな日である。 自分のこども時代にまつわる夢だった。ひとつの場面として、高校の校舎にいた。緑の多い中庭に立っていて、目の前には建物があり、扉からたくさんの生徒たちが出入りしていた。入学してすぐの不安なころである。 その場面とひもづいて直観がきた。人生はこのころだって、十分しんどかったのだ。そう考えることの意味は、目が覚めたいまわかる。 就職した23歳から30歳の今まで、日々「しんどいしんどい」と思い続けてきた。なぜこどものころと比べて、毎日がずっとつまらなくなってしまったのだろうと、そのことばかり考えていた。こどものころは、朝起きればなにか新しいことが、楽しいことが待っていた。しかし会社は自分の一日を大切にしてくれない。そんな理由で最初の会社を一年で辞めたし、唯一“こどものころのように”楽しいと思った批評と読書だけにしがみついていた。だから今も、平日の憂さ晴らしとして休日に予定を詰め込んでいる。 だが。 「こどものころはただ楽しかった」というのは、大人の自分による欺瞞なのだということを、夢のなかのこどもの自分が教えてくれたのだ。こどものころだって、十代だって、しんどいことはたくさんあったし、つらかった。新しいこと、楽しいことのようなきらめきは確かにあったが、決してそれだけではなかった。怒りとか、劣等感とか、うしろめたさとかがその辺にごろごろしていた。 大人になった自分は、それを忘れていた。楽しかったことを忘れていたのではなく、しんどかったことを忘れていたのだ。昔と比べて今を卑下するために、昔を単純化していた。そうではない。こどもの自分は、もっと複雑な人生を生きていた。今と同じような複雑さである。大人になって、こどもの時代とは切断されたと勝手に感じていたけれど、そんなに上手に切れていない。 では、こども(の自分)と大人(の自分)はなにが違うのだろうか。 こどもは昔と今を比べない。今と未来を比べて、未来の方に何かが待っているとわかっている。だからしんどくても、複雑さを失わないまま、楽しいことを見つけられる。 大人は昔と今を比べてしまう。だから昔の楽しかったことばかり思い出してしまう。複雑さを捨てて、今を単純に「つまらなさ」に還元してしまう。 しかし、大人の役割はそうではないのだ。これも起きぬけに直観し...

240922

同人誌に載せる座談会の修正をした。自分には「みたいな」という口癖があることがわかった。昔の言い回しでは「的な」みたいなニュアンスで使っている。「like a」。比喩の一歩手前というか、瞬間的にモードを変えますよというスイッチなのだろう。 それから、「、」を入れすぎる傾向がある。これは話しているときではなく、最初の修正で入れすぎたのだと思う。基本的には「、」が多い方が読みやすいが、多すぎると読む側が言葉の意味をつなげづらくなる。意味をつなげるというか、言葉を群れとして認識しづらくなる。効果的に使うことを覚えたい。例えば文を次の段階に進めたり、並列で並べたり、途中で向きを変えたり、流れを止めたりするとき。止めるときは素直に「。」か。 自分一人の原稿は前半がおおよそできたので、後半を作っていかなくてはいけない。散文的思考の自由はどのように実現されるか、という問いから始まった。前半では、超越論的な思考によって最も広いスペースを作れるのだということにした。 前半に追加できるか(すべきか)わからないが、超越論的哲学と脱構築はなんか違うのかという話も考えてみたい。料理にたとえたら、超越論的哲学は「料理を作ること」みたいな基礎的な話で、脱構築は「冷蔵庫にあるものだけでうまい晩飯を作ろう!」みたいな、YouTubeにありそうな具体的かつ応用的な話ではないか、といま思った。どちらのばあいも成果物として出てくる一皿があり、それが「統覚」とか「脱構築不可能なもの」とかいわれるやつ。でも脱構築の方がメソッド化されているから上げ下げ含めて話題になりやすい。 後半は前半を引きずり過ぎないように、違った構えというか語彙で進める必要がある。自由な空間を確保したとして、そこでどう踊るか(料理するかでもいいが)という、行為的なレベルの話をする。批評においてはレトリックの話であり、わざ言語であり、文学である。