投稿

11月, 2023の投稿を表示しています

231201

  ここ数日でいろいろ悩みが深まった。 家族と言い争いをしたり、体調を崩したりしたことが直接的な理由だと思うが、とにかくうまくできていない自分にイライラしているのだろう。 時間を何に使うかとか、何のために本を読むのか、といったことはいかにも「神経症的」な振る舞いだ。 神経症的、という言葉は、村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』にたくさん出てくる。そこでの使われ方とは少し意味合いが異なるかもしれないが、ともかく、世の中の多くの人は意味の森のような場所に囚われて思い悩むし、自分もそうだ。 フリーライターとして「文化的雪かき」のような仕事をしていたという『ダンス・ダンス・ダンス』の主人公は、結末の近くで「ただの文章」を書こうと思い立つ。 この小説を紹介していた福尾匠さんは、自身の著作『眼がスクリーンになるとき』を、映画や芸術を「ただ見る」ことから始めていた。   ただ見る。ただ読む。ただ書く。 ただ働き(タダ働きではない)、ただ生活する。 それは意味の森、神経症的な迷路とは別のところで行われる行為だ。   この文章もまた、ただやってみた作業の一部である。

東浩紀の「客的-裏方的二重体」について

『ゲンロン15』所収の東浩紀の文章を読んだ。そこで語られていることは大きく二つある。 ひとつは、現代人は誰もが「お客さん」でいることと「スタッフ」でいることを往復しながら生きるほかない、ということ。 もうひとつは、そんな時代において哲学者は、「お客さん」の側の世界について考え、言葉の力でそこに働きかけるのが仕事だということである。 文章のタイトルは「哲学とはなにか、あるいは客的-裏方的二重体について」。 東は東南アジアのリゾートホテルでこの文章を書いたという。そこではプールにぷかぷか浮かび何も考えずにぼーっとしている客と、それにせっせと奉仕するスタッフ=裏方の、二種類の人間がいる。 しかし、現代は誰もが裏方として働いて身銭を稼ぎながら、時々は客となって余暇を楽しむ時代である。いまスタッフとして働いている人も、別のところでは客としてぼーっとしている。逆に、いま客として振る舞っている人も翌日からはどこかのスタッフになる。いわば客と裏方の「二重体」であり、これが現代人のモデルである。 次に東はこのように指摘する。知識人(特にリベラルを自認する人々)や哲学者は、「裏方の世界とその苦悩がもっと改善されるべきだ」と叫びつづけてきた。たしかに、マルクスが労働者を主役にした世界観を提示したところから、リベラルの立場は変わっていないだろう。 しかし、世界は裏方だけではなく、客がいないとまわらないのではないか。といっても、もちろん東は「労働者は資本家に奉仕するべき」と言っているのではない。 リゾートの人々のように、現代は誰もが労働者でありつつ、時に資本家的な(客的な)時間を楽しむものである。つまり労働者対資本家の二項対立ではなくなっている、というところから、先ほどの二重体概念が出てきている。東が指摘する通り、リベラル派の人々だって、いつも政治的に生きているわけではなく、どこかに旅行にいけば客として振る舞うのだし、それは普通のことなのだ。 裏方だけではなく、客として振る舞う人のことを考えなくてはいけない。言い換えれば、人間として真面目に生きる時間だけでなく、動物のように欲求に従う不真面目な時間がなくては人は生きていけないし、世界はそうできている。 そしてもうひとつポイントになるのが、人は客として振る舞っているとき、自然と寛容になるという部分である。 東は、リゾートホテルでは、民族や宗教に...