231201
ここ数日でいろいろ悩みが深まった。 家族と言い争いをしたり、体調を崩したりしたことが直接的な理由だと思うが、とにかくうまくできていない自分にイライラしているのだろう。 時間を何に使うかとか、何のために本を読むのか、といったことはいかにも「神経症的」な振る舞いだ。 神経症的、という言葉は、村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』にたくさん出てくる。そこでの使われ方とは少し意味合いが異なるかもしれないが、ともかく、世の中の多くの人は意味の森のような場所に囚われて思い悩むし、自分もそうだ。 フリーライターとして「文化的雪かき」のような仕事をしていたという『ダンス・ダンス・ダンス』の主人公は、結末の近くで「ただの文章」を書こうと思い立つ。 この小説を紹介していた福尾匠さんは、自身の著作『眼がスクリーンになるとき』を、映画や芸術を「ただ見る」ことから始めていた。 ただ見る。ただ読む。ただ書く。 ただ働き(タダ働きではない)、ただ生活する。 それは意味の森、神経症的な迷路とは別のところで行われる行為だ。 この文章もまた、ただやってみた作業の一部である。