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郵便本講座が始まる前に

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  この 5 月から、 PARA 神保町という劇場で実施される連続講座「 東浩紀『存在論的、郵便的』を読む 」を受講することになった。講師は福尾匠さん。 講座は、約 1 年をかけて、東浩紀の最初の著書を読んでいこうというもの。講座が始まる前に、自分なりに学びたいことをまとめておきたい。  * 「脱構築」を学ぶ。 東浩紀は自分が特に好んで読んできた著者である。また、それ以外にも比較的多く触れてきた書き手たち――巽孝之、佐々木敦、千葉雅也、松岡正剛――のスタイルを思い出すと、共通項として脱構築がある。 それが何なのかを知りたいのにそれをキーワードとして出すのも奇妙だが、ようは議論の逆説であったり、価値の転倒といったアクロバティックを経て、読み手のなかに新しい思考を誘発する文章=批評、だろうか。 そういったテキストを読むのが好きだし、自分も書けるようになりたい。そのために、『存在論的、郵便的』を読む。第一に、この本は東浩紀による、(脱構築の生みの親)デリダの脱構築の実践であり、第二に「●●ではなく●●でもない」と消去法的に語られがちだった脱構築という難解なスタイルに、「郵便・誤配」という積極的な可能性を見出した本である。こうした意味で、『存在論的、郵便的』は取り組むべきテキストだと感じる。  * 2016 年に批評再生塾を受講してから7年近く経った。以降、友人との読書会などを通して様々な種類の本を読んできた。当時よりほんの少しだが思弁的な文章にも耐性がついた。ここいらで、次の思考につながる足場を組みたいと思う。

穴の形をした石――『雨夜の月』について

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   青年と、同じくらいの年の女性が床に座って話し込んでいる。青年は都会の大学で文学を学ぶことが決まって、生まれ故郷を飛び出す日を心待ちにしている。幼なじみである女性は、応援していると言いつつもどこか我慢しているようだ。 青年はやがて都会へと旅立った。しかしその後、豪雨災害が故郷を襲い、人々は命を落とす。数年後、青年は再び故郷を訪れ、死者となった家族、そして幼なじみと再会する。   *   『雨夜の月』(あまよのつき)は、菅沼啓紀の脚本・演出による舞台作品である。今年 1 月に池袋で上演された。 田舎の価値観に反発する青年とそれを取り巻く人々が、災害を経て生者と死者として再会し、かつてのわだかまりをほどいていく様が描かれる。 菅沼は、 この舞台を立ち上げる際のクラウドファンディング で「大切な人の喪失にどう向き合えばいいのかを考える」というテーマを掲げていた。実際に観客として舞台を見届けた私たちは、この舞台から何を汲みとることができるだろうか。   *   死者となった家族との対話を終えた青年は、ラストシーンで幼なじみと再会する。しかし、家族と違って、青年は彼女をまっすぐ見ることができない。青年は言う。「いま振り返ったら、君が消えてしまうかもしれないじゃないか」。 このセリフは、舞台の冒頭で語られる「オルフェウスの冥界くだり」というギリシャ神話の挿話に由来している。オルフェウスは、死んだ妻を取り戻すために冥府の王と交渉し、あることを条件に妻を冥界から連れ戻すことを許される。オルフェウスは妻を連れて地上へ向かうが、あと少しというところで、「決して後ろを振り返ってはならない」という、冥府の王から与えられた禁を破ってしまう。妻はオルフェウスの前で姿を消し、その後二度と会うことはできなかった。 『雨夜の月』のラストで描かれる青年と幼なじみの対話は、オルフェウスと妻のエピソードを再現している。だから青年は振り返ることをためらう。だが逡巡しつつも、「私を振り返って」と呼びかける幼なじみに応え、振り向いて幼なじみを抱きしめる。青年は「何度でも振り返る」と約束し、舞台の幕が下りる。 菅沼が掲げていた「喪失にどう向き合うか」というテーマを再び思い出せば、当然このシーンに答えが描かれていると考...