「実体の形而上学」とは何だろうか
ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』を読書会で読んでいたとき、「実体の形而上学」という言葉が出てきた。フェミニズム理論が乗り越えるべきものとして名指されている「実体の形而上学」とは何だろうか。どうやらフェミニズムに留まらず、哲学の歴史でずっと議論されてきた問題であるようだ。少し整理してみたい。 * バトラーいわく、哲学は伝統的に「主体」と「属性」という一対の概念を前提とする。「さまざまな本質的または非本質的な属性をになう実体として、ひとを想定する」(バトラー)。伝統的な哲学の考え方を継いだフェミニズムでいえば、まず何の属性も付加されていないひと(主体)がいて、そこに女という属性が社会的に与えられるのだ、という考え方である。この考え方が一言で「実体の形而上学」と呼ばれる。 形而上学とは、超越についての学問だ。何を超越するかというと、人間が感覚できる世界を超越した真理とか理想みたいなものである。この場合は「実体」というのがそれで、議論の前提にドンと据えおかれている。実体は見えたり聞こえたりする人間の感覚を超越しているということだ。 たしかに、「何の属性も付加されていないひと」というのを我々は知覚できない。ひとは生まれた瞬間からただのひとではない。何という名前か、男の子か女の子か、どの父親と母親から生まれたか、といった属性を貼り付けられている。病院では文字どおり、そうした属性が走り書きされたタグみたいなものが赤ちゃんの腕に貼り付けられる。 ** 実体は、包丁で切られる前の野菜みたいに冷蔵庫からすぐ取り出せるものではない。ほら、と見せられる人はいない。ならば、なぜ哲学ではそのような不確かなものが幅を利かせているのだろうか? 哲学史の本で最初に「実体」という言葉が登場するのは、アリストテレスのページである。アリストテレスは、何かが「在る」ということ(英語のbe動詞のようなこと)を説明するために、「在る」のあり方をいくつかのカテゴリーに分けた。こう書くとややこしいが、同じ主語に対しても述語のパターンはいくつかあるよねという話だ。たとえば林檎という主語に対して、赤いとか大きいといった「性質」を指すこともできれば、彼のものだという「所有」を述べることもできる、といった風に。 そんな性質や所有と並ぶ述語カテゴリーのひとつが「実体」である。主語に対して、「これは何であるか」と...