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240331

東浩紀『存在論的、郵便的』を読む、という講座が終わった。約1年かけて、1冊の本に取り組む読書会だった。合計17回神保町に集まり、1節ずつ読んでいった。 いくつか書いておく。とりあえず今日は脱構築の話。(方法の話は次回) 講座が始まる前、自分はこのブログで、「脱構築について学びたい」から参加すると書いていた。郵便本では、じつに様々な言葉で脱構築が語られていた。あるときは「クラインの壺」と呼ばれる図形で、あるときは配達される手紙の比喩で、あるときは精神分析という手法として。 いま、改めて脱構築とは何かと自分なりに考えるなら、「超越論性を超越論的に論じること」=「メタ超越論」だと答えたい。「超・超越論」でもいい。 そもそも超越論とは、カントの言葉だった。人間は、物自体に直接アクセス(思考)することができない。しかし、間接的なアクセスの手法を明らかにすることはできる。思考の枠組みは「形式」と呼ばれ、『純粋理性批判』のなかでいくつも列挙される。 言い換えると、カント以降の伝統的な哲学の世界では、「思考可能なものはどのようにして可能になっているか」が論じられてきた。その副産物として、思考可能なものを可能にする何か、という一つ上の次元(メタレベル)を想定することになった。このメタな次元は、郵便本では「思考不可能なもの」と呼ばれる。 たとえ1。図にすると円錐のようなかたちになる。底面に思考可能なものの次元がある。頂上は、思考の形式、すなわち思考不可能なものである。頂上から吊り上げられる(規定される)ことで、底面は存在することができる。 たとえ2。英文法でいうと、思考可能なものは名詞とか形容詞といった一連の品詞の次元である。思考不可能なものは、be動詞の次元である。何かがある、ではなく、あることそのものの次元。 ところが、20世紀の哲学者である、ハイデガーやラカン、そしてデリダといった人たちは、この思考不可能な次元(思考の限界)をさらに思考しようとする。思考可能なもの(オブジェクトレベル)と、思考不可能なもの(メタレベル)がある、というのがカントだとして、ではその二分法は何を前提にしているのか、と問う。円錐の頂点はなぜ頂点でいられるのか。あるいは、be動詞はどのようにbe(存在)できるのか。この思考が脱構築である。円錐という構築物を脱臼するから脱構築。円錐の思考(超越論性)を相対化し...

240303

  ・カントのいう「事実問題」と「権利問題」の違いについて。 ・少し前にも書いたが、カントは「人間が何かを認識する」、というプロセスを説明しようとする。これはカント以前にも数々の哲学者が考えてきたテーマだが、カントには気に入らないところがある。それは、認識が「はじまる」ことと、認識が「生まれる」ことが区別されていない、ということである。 ・認識は経験によって「はじまる」。気を失った人物が、暗闇のなか聞こえる声や物音、差し込んでくる光によって徐々に意識を取り戻していく、という描写はドラマでよくあるが、そんなイメージである。何かの対象から、音や光を受け取るという経験によって認識はスタートする。 ・過去の哲学者(カントが引き合いに出すのはジョン・ロック)は、このプロセスを記述することで「認識とはなにか」を説明していた。哲学史的には「イギリス経験論」といわれる考え方である。 ・カントは、ロックの仕事は必要な作業だと認めつつ、これだけでは問題に半分しか答えていないとする。認識はたしかに経験とともにスタートするが、そもそも経験する前から人間の認識には備わっている何かがあるだろう、という。パソコンのたとえで言えば、スイッチを押せばプログラムが起動するのは間違いないが、それはスイッチを押す前からプログラムがあるということ。カントは、そのプログラムがどう書かれているかに注目せよという。つまり、認識の「はじまり」ではなく「生まれ」の方を考えるのが哲学の本当の仕事である。「経験による系譜を示す出生証明書とはまったく異なる出生証明書を提示する必要がある」。 ・では、そのプログラムとは、認識の「生まれ」には何があるのか。カントは人間の認識を2つのプロセスに分けている。「感性」による対象の受容と、それに続く「知性」による思考である。そして、感性と知性にはどちらにもある種の「形式」が備わっている。感性は「空間」と「時間」の 2 種。知性は「単一性」とか「因果性」などの 12 種。これらの形式こそが、認識が生まれ持っている、カントの言葉でいえば「アプリオリに純粋な」プログラムである。 ・因果性を例に出すなら、夕焼けが赤いと翌日は雨が降るという認識は、人間が経験から学びとったものである。だが「 A が起きると B が起きる」という思考、つまり因果性の形式自体は生まれ持...