サマリー:岡﨑乾二郎「批評を招喚する」
サマリー:岡﨑 乾二郎「批評を招喚する」(『抽象の力』p382-410) 芸術には形式がある。絵画や建築、舞踊や彫刻といった大きな括りから、より絞れば印象派やメタボリズムといった運動まで。形式は外延と内包(あるいは物質と精神、媒体と意図)の組み合わせから成る。 芸術とは何か。制作も批評も、その問いには従来の形式を批判することで答えてきた。形式批判の道筋は大きく二つに分かれている。ひとつは本質主義 —— 外延か内包のどちらかを本質とすることでもう一方の不足や抑圧を告発する。もうひとつは歴史主義 —— 形式の展開を、外延あるいは内包の止揚へと向かう必然的過程と位置づける。 本質主義も歴史主義も問題含みだ。外延も内包も、一方を本質とするかぎり必ず他方に裏切られる。完全に調和した形式など現実にはないからだ。本質主義は自身の正当性を確保するために形式の矛盾を必要としている。歴史主義は全体主義へと直結する。いずれにせよ芸術はイデオロギーになる。アイデンティティを問うことをアイデンティティとしたとき、永遠の空白が確保される。 著者は第三の立場を表明する。作品とは、形式に基づいて生み出されたオブジェクト、生産物である。形式とは外延と内包、素材と作者を結びつける機能である。形式にはパラダイムあるいはプライムオブジェクトと呼ばれる原型がある。作品は外延でも内包でもなく、まず原型が生み出す規範に従う(原型>形式>作品)。 形式は歴史をもたない。芸術史は支配的な人間集団の移り変わりにすぎない。形式はそれぞれに異なる時間・空間の周期を持ち、繰り返し歴史に現れるが、規範自体は変化しない。作品とは複数の形式の組合せ・衝突である。 であれば批評の仕事は何か。ただ現在を切り取ろうとすれば市場のヘゲモニーの話に回収される。そうではなく、作品のなかに流れ込む形式(群)の構造を新たに発見すること。構造をいまだ明らかにされていない角度で切断してみせることでのみ現在は現れる。