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241205

 ・夜中の2時半ごろ、からだがかゆいと子どもが起きだし、薬を塗ったがふたたび寝つけないようで、絵本を読んだりテレビで動画を見せたりした。自分はソファで気絶していたが、5時半にスマホのアラームが鳴るとまだ子どもは起きて動画を見ている。明日は保育園の「大きくなったね会」という発表会があるのだが、気になって眠れなくなってしまったのかもしれない。テレビを消して布団につれていくとまた絵本を読んでくれと泣いていたが、我慢して寝たふりをしていると諦めて横になって寝始めた。 ・文学フリマではじめてつくった本『タフのパン』について、ツイッターで言及してくれた人がいた。しかし、かなり厳しい評価だった。読書会についての座談会を楽しみに買ってくれたようだが、内容の強度がかなり物足りないとのことだった。理論的な話をほとんどしておらず行き当たりばったりで会話していたのをそのまま収録したから、まあそう思うだろう。と認める半面、感想の続きで「自分は『タフのパン』を上回る成果物を作ってやると思った」という部分については、かかってこいやという気持になった。 ・福尾匠と東浩紀がツイッター上で喧嘩していた。いち観客の感想としては、福尾が本を通して、これだけ正面からストレートの球を投げても、東はバッターボックスにすら立たない(くだんの本を読みもせず、かつ読まないということをわざわざ宣言する)という点が残念で、本を書くことの圧倒的な孤独を思った。批評(ゲーム)はプレイヤーではなく観客がルールを決める、ということを東はさまざまなところで書いている。私はこれまで漠然と、ゲームとは複数のプレイヤーが向かい合ってやりあっていて、まわりを観客が囲んでいるような場面をイメージしていた。しかし実際は、広いスタジアムにプレイヤーがたった一人で立っているようなものなのかもしれない。ピッチャーとバッターが向かい合って真剣勝負、ということではなくて、かつてバッターが立っていた、いまは誰もいないボックスに向かってひとりで投げるような。しかしそうなったら、やはり誰かが観客席からマウンドに下りて、球を拾わなければならないのではないか。「矢として放たれた哲学は、誰かがそれを拾い直してもういちど矢として放たれて初めて哲学になる」ということを福尾は書いていた。 ・黒嵜想さんの文章を初めて読んで感銘を受けた。京都アニメーション放火事件の...