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『国家』と人間の喪

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  プラトンの『国家』を読み終えた。 古代ギリシャに生きるソクラテスという哲学者が、友人から「正義は見かけではなく、それ自体で報われるのか」という議論を吹っ掛けられる。その返答として、ソクラテスは正義の定義、その代表としての理想国家を論じていく。友人たちの相槌を挟みながら繰り広げられるソクラテスのながーーい演説、それが『国家』である。 この本が有名なのは、理想国家の条件として「哲学者が王になること」を挙げて、その理由に「哲学とは〈善〉のイデアを追い求める営みだから」と言い切ったことによる。後の世代の哲学者たちが出発するための、スタートラインを引いたのがプラトンだった。  * 気になったのは、正義とは何かを論じるために、国家を人間の「例え」として扱っていることである。 解説の言葉を借りると、国家と個人、「これら二つは互いに同一の事柄であるという意味である。一個人の魂において正義であるところのものが、そのまま、良く統治された国家において正しい国制をなすところのものにほかならない」。 言いたいことはわかる。が、個人=国家という図式は、本全体で最も重要な前提のはずだが、そのわりに特に議論が深められることもなくさらっと述べられている。あるいは、最も重要であるがゆえに、自明視されて疑われることがない。ソクラテスは「遠くの小さい文字を読むより、近くの大きい文字を読んだほうがわかりやすいだろ」とか言って、個人を考えるために国家を考える、というレトリックをちゃっかり承認させている。 単純な思考でいえば、個人と国家はかなり違う。東浩紀の最近のテーマだが、「人間は個において賢くなれるけれども、集団になると愚かな振る舞い(虐殺など)をするのはなぜか」という問題がある。 2020 年代の人間としてはしっくりこない前提である。 なんとなくヒントになりそうなのは、プラトンにとってソクラテスとは何だったのか、というところ。まず事実として、ソクラテスはプラトンの師匠である。ソクラテスは自分で本を書かず、色んな人と魅力的な議論を展開して、周りの若者たちを惹きつけていた。プラトンが 20 代のとき、ソクラテスは国が定める正しい神を信じていないという罪で起訴され、死刑になった。死後数十年経って、プラトンはソクラテスを主人公にした本を書き始める。 たぶん...